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歴史 DEBAUVE & GALLAISの創立者: Sulpice DEBAUVE とAntoine GALLAIS、1900年のパリ万国博覧会にて
薬剤師からショコラティエに
Debauve & Gallaisのチョコレートを誉める最も古い文書によりますと、Sulpice DEBAUVE氏(スルピス・ドゥボーブ)はフランス王ルイ16世の元薬剤師と、フランス王シャルル10世のチョコレートの御用商人でした。当時はフランス王の御用商人になることが自社のチョコレートの品質を守る最も良い保障でした。この品質は王様が好むチョコレートとして特にブルボン家、ルイ13世を初め、スペインの女王オーストリア家のアンとフィリップ3世の娘のおかげで保持され、王家でチョコレートを楽しむようになりました。
大陸封鎖のため、フランスの物価が急騰し、多くのチョコレート屋が破産しました。その8年前、1800年に、1757年12月6日生まれのスルピス・ドゥボーブ氏は、妻カトリーヌ・デュシュマンに支えられ、初めて自分のチョコレートの店を開きました。この店は、パリの左岸にある「サン・ギヨーム通りに近い、サン・ドミニック通りの向かい」のフォブール・サン・ジェルマンの4番地でした。この様な店はパリに1670年に初めて開かれたと言われています。
そして、サン・ジェルマン・アン・レの薬局をたたみました。10年後にグリモ・ド・ラ・レニエール氏は彼についてこう書きました。「彼は学識のある人で、彼の薬品知識は選んだ新しい道と完璧にマッチし、多くのライバルと比較することが出来るはずです。」
その時、スルピス・ドゥボーブ氏は自分のモットー「Utile Dulci」 (美味しくて健康に良い) を選びました。このモットーはオラティウスに借り、自分の店に彫り込みました。そして、この店を「フランスのチョコレートの名声へ」と名付けました。
この大食漢のチョコレート屋は元の職業、薬屋にならい、新しい店に当時の素晴らしい薬局にあった半円型の木林のカウンターを備付けることにしました。ナポレオン一世がマルメゾンを建てるために選んだ建築家、ペルシェとフォンテーヌが、暖かい雰囲気を作るための建築、大理石のアンチークな円柱をあの半円型のカウンターに付け足しました。
薬としてのショコラ
スルピス・ドゥボーブ氏はアムステルダムのステファニウス・ブランカルヂウス医師の結論をきっと読んだのでしょう。この医師は一世紀前近く、1705年にこう書きました。「チョコレートは、口の喜びだけではなく、香りの良い樹脂で口腺や粘液を守るものですので、ホット・ココアを飲めば口の臭いが消えます。」薬としてチョコレートを強く勧める医師は、間違い無くスルピス・ドゥボーブ氏を喜ばせたでしょう。特に、この医師は次のように言いました。「体全体を震えさせる咳のあなたへ。チョコレートはどのシロップよりも効果的に風邪を治せる。消化が少し悪いあなたへ。あっと言う間に回復し、あなたの寒い冬が気持ちのいい春に変わりますので、遠慮なくチョコレートを食べなさい。」
ガレ氏のMonographie du Cacaoの中で、チョコレートの健康的な効果について、詳しく説明されています。「サレップと言うのは、ペルシア中部の森林や畑にあるオルキーの乾かした根です。特に、モリオ、マスキュラ、ビフォリアのオルキーが一番良く使われております。ペルシアや東洋では、サレップは催淫作用があると思われていました。」当時、サレップを食べ物に入れ、東洋では麝香、龍ぜん香やしょうがなどに付け足すそうです。そして、自然科学辞典を書いたデロンシャン医者を引用しました。「サレップは植物として、一番栄養になる物です。特に、咳の出る慢性的な病気の場合に効果的です。チョコレートと混ぜると美味しく楽しむことが出来ます。」
当時の日刊紙では、ある購読者の証言として、ある程度ドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートを食べると確実に効果があると載せています。一般的なチョコレートとホット・ココアの長所の後、次の様に書きました。「とにかくチョコレートは健康になる物です。そこで、最もお口のこえた方にはドゥボーブ・エ・ガレしかありません。しかし、値段がなんと言っても高い。500グラムを5、6、7フランで販売しています。それにも関わらず、多くの人はドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートを買い続けています。なぜなら、難しいのにも関わらず、ココア豆を完璧に挽き、チョコレートの特徴を保っているからです。その上、沢山食べることが苦手な方には少しだけでもチョコレートを食べるといいと言われています。女性、健康でない方や回復期にある患者が美味しくて健康的に食べられます。」
1832年に元気になるチョコレートは医者にも支持され、彼らは食事療法や真性コレラの予防や回復期にある患者に勧めていました。中には、特にドゥボーブ・エ・ガレのピストルを胃の神経症などに進める医者もいました。他にも、果物の代わりに牛乳と水で作ったホット・ココアを飲む方がいいと言う人もいました。
名声が高まります
1804年に、グリモ・ド・ラ・レニエール氏は「グルマン年鑑」にドゥボーブ氏についてこう書きました。「ここでは、彼の作る絶妙なチョコレートを全て紹介出来るわけではありませんが、スペイン、ピエモンやイタリアでの作り方に従った物があるため、マドリッド、フィレンツェ、ジェノヴァとトリノがこの店で手をつなぐことになり、バイヨンヌと最も良い地位を競っています。しかし、一つだけ紹介したいのは、ペルシアのサレップで作られている、元気を回復させるチョコレートです。」
早くもドゥボーブ氏はフランス王ルイ18世を初め、続いてシャルル10世とルイ・フィリップ王の御用商人になりました。彼の評判はヨーロッパ全体に広がり、各国の伝統に従った特徴を守りながらチョコレートが段々と人気を得たドイツ、スイス、イタリアやイギリスでも有名になりました。
Le Figaroでは、ドゥボーブ氏のチョコレートについて記事が書かれました。「30年前、フランスでは、チョコレートは老人の朝御飯に過ぎなかった。しかし、ドゥボーブ氏のおかげでチョコレートはペルシアのサレップで作られた元気を回復させるチョコレートとなりました。そのチョコレートは消化しやすいと共に栄養になる物です。身体が弱い方や肺の悪い方や神経質な胃と慢性な病気のある方にお勧めいたします。」
同年1804年に、ドゥボーブ氏はフランス中に、今日の免税店に近い店を65軒開きました。そして、パリの右岸にあるPalais du Tribunal、フランス劇場に近い、「ガルリ・ノアール」と名付けた店を開き、もう一軒、パレ・ロワイヤルにガレリ・ド・ピエールの114番地にあるロシェット氏の眼鏡屋に「デ・ボン・ザンファン」として知られている店を開きました。 Rue de la Paix とFaubourg Poissonnièreにも二軒、そして シャルトル、ドルゥ、ランブイエ、ダンケルク、リール、カンブレ、ニームにも。
1818年に、Faubourg Saint Germainに詳しいドゥボーブ氏は本店をサン・ペール通りの26番地に引っ越しました。1819年に初めて、それから1823年にもフランスのチョコレート業界のMention Honorableを受賞しました。1823年に自分の甥の科学者、アントワーヌ・ガレと共同しアーモンド・ミルク、バニラやオレンジの表皮を使った健康に良いチョコレートを作り始めました。
また、ガレ氏はテレオブロームを見つけた人です。テレオブロームとは初めてのインスタントのコールド・ココアで、女性、子供達や「体の弱い方や夏ばてしやすい方は、砂糖、バニラやアーモンド・ミルクを混ぜたソコヌスコとカラウエーの甘さを楽しむことが出来ます。」テレオブロームのおかげで牛乳で作られたインスタントのコールド・ココアが美味しくて栄養があり、消化を助ける飲み物となりました。十五杯分のバニラとアーモンド・ミルク味のビンを3フランから5フランで販売していました。
発明者のドゥボーブとガレ
1829年にドゥボーブ・エ・ガレは新しい円筒機械を使い始めました。それは大理石の円筒と花こう石の台を組み合わせた機械であり、バルセロナのチョコレート屋が使っていた鉄の円筒と異なり、カカオ豆を刻むことは人間の仕事では無くなるようになりました。この機械のおかげで、以前より安定した生産を保証することが出来る様になりました。当時の新聞には次の様に書かれていました。「その機械のおかげでココアの味や甘さなどの特徴を保つことが出来ます。」
宣伝の中で、「Le Temps」という日刊紙に掲載されたドゥボーブ・エ・ガレに関する記事が引用してあります。「ドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートには健康的に良い面があるため、ここのチョコレートを真似することは出来ません。注意深く作られているチョコレートは、鉄の不愉快な味を付けない新しい円筒を使い、品質を保つ作り方に従って作られているものですので、純チョコレートでありながら、注意深く選ばれたカカオ豆がドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートをより完璧にさせます。」
その上、1835年にガレ氏は牛乳を保存するラクトリン方法を発見しました。それは、牛乳を乾かせる方法であり、それからのお菓子業界でこの粉状の牛乳を発展させました。
しかし、この評判のせいでドゥボーブ・エ・ガレは段々と真似され始めました。そこで偽者と異なる高品質を保証するドゥボーブ・エ・ガレの印を作ることを決めました。
ドゥボーブの後継ぎ
79歳でスルピス・ドゥボーブが亡くなった1836年4月12日に彼の業績がポルタル、アリベール、モンテーグル、コルヴィザール氏などの最も有名な医者によって誉められました。そのしばらくの後、アントワーヌ・ガレも亡くなり、1840年にチョコレート業に知識を持つテリー氏がお店を引き継ぎ、フランスとヨーロッパで有名になったドゥボーブ・エ・ガレの伝統とノウハウを生かせ続けました。
その後、1858年にユーゴン氏が続いて引き継ぎ、avenue de Ségurの51番地に最も進んだ工房を建てました。1867年の万国博覧会でチョコレートの組み合わせを紹介し、銅メダルを受賞しました。5年後、1872年にリヨンで行なわれた同じ博覧会では金メダルを受賞しました。
1873年にユーゴン氏の息子が引き継ぎました。ドゥボーブ・エ・ガレの古文書には次の様に書いてあります。「ドゥボーブ・エ・ガレは大きくなり続けています。一日の生産量はこの頃、15000キロで、新しい機械などのおかげでこの日産を倍に増加することができます。」今でも店に彫ってあるオラティウスのモットー「Utile Dulci」を生かすユーゴン氏はドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートを安く、手ごろな値段と共に高品質を保証したいと言い、1キロを3フランで販売することを決心しました。そして、ユーゴン氏の息子が1878年の万国博覧会と1885年のアンベール万国博覧会で金メダルを受賞しました。そのアンベールでの金メダルはドゥボーブ・エ・ガレの特別な新製品の「Chocolat éclair」が受賞しました。それはカカオ・パウダーを暖かい牛乳、あるいはお湯で混ぜると簡単にホット・ココアが出来るというものです。
1889年にフランス産業博覧会で再び受賞したドゥボーブ・エ・ガレは、フランス、ベルギーとスイスでの店を誉められました。「ドゥボーブ氏がフランスで段々人気になっているチョコレート業を確実に発展させたと言えますので、彼の努力に報いるため、パリで行った1819年の全国博覧会の陪審から 「Mention Honorable」を贈られました。この賞は初めて贈られたので、フランスのチョコレート業界に大きく影響するものとなりました。その上、ドゥボーブ・エ・ガレがフランス王の御用商人だったことも、既に評判が高かったドゥボーブ・エ・ガレにさらにプラスに作用しました。
そして、1900年のパリ万国博覧会でドゥボーブ・エ・ガレは三つ目の金メダルを受賞しました。
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